本能寺の変の原因や、明智光秀の黒幕について、作家や歴史家が、いくつもの説を唱えている。実証的なものもあれば、推理小説まがいのものまで、多彩で、楽しいものだ。
朝廷陰謀説というのも、そのうちの一つである。
光秀と朝廷がツルンでいた、というのだ。
それを証する史料のうち、例えば、次のようなものが提示される。
六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。 (『天正十年夏記』勧修寺晴豊) |
光秀の近臣、斎藤内蔵助(利三)が、山崎合戦後、羽柴方に生け捕られ、京中を引き回されながら、刑場へ向かう。これを、公家の勧修寺晴豊が、道筋で見物したのだろう、その時の光景と思いを、本人が日記にしたためたもの。
この描写のうち「信長打談合衆也」の表現に目を付けて、「信長打倒を、我ら(晴豊=公家)と謀議した者」と解釈すれば、朝廷陰謀説が出てくるわけだ。
だが、それは早とちり、というのが、筆者の感想である。
このばあい、「談合」を、現代風に、打ち合わせ、謀議、根回し、密談、などと解するとしても、それは、
1、主人・光秀と「談合」した主臣たちのうちの一人。
2、我ら(晴豊=公家)と談合した者。
と、二通りの解釈ができるはずであって、必ずしも、2(朝廷陰謀説)の証になるとは限らないのだ。
これを朝廷陰謀説を唱える論者の方々は、どう合理的に処理されているのだろうか。
いわんや、「談合」ではなく、「談合衆」と書かれている。
「談合衆」とは、中世の武家において、軍議、軍談が主要な任務の近臣集団を言う言葉である。したがって、「信長打談合衆」とは、信長打倒を、主人・光秀と謀った主だった近臣・部将・重臣、というほどの意味でしかない。
また、仮に、斎藤内蔵助が、晴豊ら公家たちと、信長打倒を謀議した相手なら、「明智者也」「武者なる者也」などと、晴豊自身が、とうに知っていることを、日記に、この段階で、わざわざ書き記すとは思えない。
さらに言うなら、明智の残党狩りのありさまを、眼前に見る最中に、「信長打倒を、我々と打ち合わせした者」などと読める文言を、いくら私的な日記とはいえ、その日の日記に、リアルタイムで書き込むとは、とうてい思えない。
そう、『天正十年夏記』の意味するところは、単に、「 1、主人・光秀と「談合」した主臣たちのうちの一人」といったものに過ぎないのだろう。
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