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<title>時代歴史つぶやきぐさ</title>
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<description>歴史エッセイ。気の向くまま、つれづれなるままに。</description>
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<title>光秀－－本能寺の変直前の不審な行動</title>
<description> 本能寺の変について、とりとめのない思いを記せば、光秀の行動に不審がある。5月17日、坂本入城後、彼は10日間、そこに在城するが、その間の消息が不明という。10日間と言えば、かなり長い。その間、光秀は、いったい、何をしていたのか。何とも不審ではある。そして、5月26日、光秀は、自分の、もう一つの居城、丹波の亀山に、ようやく移動するが、すぐに翌日、愛宕山（神社）に参詣するとともに、さらに翌日（5月28日）、そこで
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<![CDATA[ 本能寺の変について、とりとめのない思いを記せば、光秀の行動に不審がある。<br /><br />5月17日、坂本入城後、彼は10日間、そこに在城するが、その間の消息が不明という。10日間と言えば、かなり長い。その間、光秀は、いったい、何をしていたのか。何とも不審ではある。<br /><br />そして、5月26日、光秀は、自分の、もう一つの居城、丹波の亀山に、ようやく移動するが、すぐに翌日、愛宕山（神社）に参詣するとともに、さらに翌日（5月28日）、そこで連歌の会を主催している。<br /><br />これが先ずは、筆者には不思議に思えてならない。<br /><br />歴史を変える大事、しかも自分が逆臣の汚名を着ることが明らかな大事、その決行迫る直前に、連歌の会を主催とは、何ともまあ、暢気なことを、と思う。<br /><br />と、ともに、会を主催というが、ならば、そこに参加した、紹把らの歌人たちは、もっと前に、光秀から、参加を懇請され、招待されていたということだろう。だからこそ、当日、山登りして、愛宕山に参集できたわけだ。2、3日前の呼びかけでは、当日、連歌の歌詠みたちが、集まれるかどうか、会が開けるかどうか、わからないではないか。<br /><br />すると、愛宕山の連歌の会のセッティングは、何と、坂本在城中に行なわれたことになるわけだ。<br /><br />中国出陣を控えた光秀、いやさ、主君襲撃を控えた光秀が、坂本在城中に、愛宕山での連歌会の手はずを整える－－これは、いったい、何を示唆するのか。<br /><br />それともう一つ。愛宕百韻と称される、この会で、光秀が詠んだ「ときは今天が下しる五月哉」なる歌が、謀反の意思を示唆したもの、と、解釈されている。有名な解釈だ。<br /><br />これもおかしいと思う。<br /><br />いくら存知よりの歌人たちとはいえ、腹心の部下でもない、どこで誰とつながっているかわからない人たちの前で、渾身、背水の大事決行直前、謀反の意思を示唆する、と思われてしまうような歌を詠むことで、己が陰謀を、わざわざ外部に知らせてしまう。そんなことをするわけがないではないか。<br /><br />「坂本在城10日間と、愛宕山連歌の会」－－本能寺の変直前の、光秀のこの動きが、不思議でならない。。。 ]]>
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<dc:subject>歴史エッセイ</dc:subject>
<dc:date>2008-11-23T02:21:53+09:00</dc:date>
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<title>本能寺、「天正十年夏記」の感想</title>
<description> 本能寺の変の原因や、明智光秀の黒幕について、作家や歴史家が、いくつもの説を唱えている。実証的なものもあれば、推理小説まがいのものまで、多彩で、楽しいものだ。朝廷陰謀説というのも、そのうちの一つである。光秀と朝廷がツルンでいた、というのだ。それを証する史料のうち、例えば、次のようなものが提示される。六月十七日　天晴。早天ﾆ済藤蔵助ﾄ申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京
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<![CDATA[ 本能寺の変の原因や、明智光秀の黒幕について、作家や歴史家が、いくつもの説を唱えている。実証的なものもあれば、推理小説まがいのものまで、多彩で、楽しいものだ。<br /><br />朝廷陰謀説というのも、そのうちの一つである。<br /><br />光秀と朝廷がツルンでいた、というのだ。<br /><br />それを証する史料のうち、例えば、次のようなものが提示される。<br /><br /><table border="1" width="auto" cellspacing="0" cellpadding="10" bordercolor="#808080"><td bgcolor="#FFFFFF" valign="middle" width="500"><font size="3">六月十七日　天晴。早天ﾆ済藤蔵助ﾄ申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候<span style="font-size:x-small;">。<br />（『天正十年夏記』勧修寺晴豊）</span></font></td></table><br />光秀の近臣、斎藤内蔵助（利三）が、山崎合戦後、羽柴方に生け捕られ、京中を引き回されながら、刑場へ向かう。これを、公家の勧修寺晴豊が、道筋で見物したのだろう、その時の光景と思いを、本人が日記にしたためたもの。<br /><br />この描写のうち「信長打談合衆也」の表現に目を付けて、「信長打倒を、我ら（晴豊＝公家）と謀議した者」と解釈すれば、朝廷陰謀説が出てくるわけだ。<br /><br />だが、それは早とちり、というのが、筆者の感想である。<br /><br />このばあい、「談合」を、現代風に、打ち合わせ、謀議、根回し、密談、などと解するとしても、それは、<br /><br />1、主人・光秀と「談合」した主臣たちのうちの一人。<br />2、我ら（晴豊＝公家）と談合した者。<br /><br />と、二通りの解釈ができるはずであって、必ずしも、２（朝廷陰謀説）の証になるとは限らないのだ。<br /><br />これを朝廷陰謀説を唱える論者の方々は、どう合理的に処理されているのだろうか。<br /><br />いわんや、「談合」ではなく、「談合衆」と書かれている。<br /><br />「談合衆」とは、中世の武家において、軍議、軍談が主要な任務の近臣集団を言う言葉である。したがって、「信長打談合衆」とは、信長打倒を、主人・光秀と謀った主だった近臣・部将・重臣、というほどの意味でしかない。<br /><br />また、仮に、斎藤内蔵助が、晴豊ら公家たちと、信長打倒を謀議した相手なら、「明智者也」「武者なる者也」などと、晴豊自身が、とうに知っていることを、日記に、この段階で、わざわざ書き記すとは思えない。<br /><br />さらに言うなら、明智の残党狩りのありさまを、眼前に見る最中に、「信長打倒を、我々と打ち合わせした者」などと読める文言を、いくら私的な日記とはいえ、その日の日記に、リアルタイムで書き込むとは、とうてい思えない。<br /><br />そう、『天正十年夏記』の意味するところは、単に、「　1、主人・光秀と「談合」した主臣たちのうちの一人」といったものに過ぎないのだろう。 ]]>
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<dc:subject>歴史エッセイ</dc:subject>
<dc:date>2008-09-24T00:31:56+09:00</dc:date>
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<title>真田幸村の謎</title>
<description> 緑濃く、草深い土地。無腰の一党がここへ来たときは、まだまだ意気軒高で、廃屋となっていた百姓家を、力を合わせて普請し、何とか住めるようにしていたし、近辺にも小屋をいくつか建てていた。だから、今でも雨露をしのぐには、ことさら困ってはいない。だが、せめてもの情けで、猫の額ほどの耕作地を持つことは許されていたものの、長年を通して、銭と糧食は慢性的に欠乏していた。そして、いつしか、微かな望みすら失われていっ
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<![CDATA[ <table border="1" width="auto" cellspacing="0" cellpadding="10" bordercolor="#808080"><td bgcolor="#FFFFFF" valign="middle" width="500">緑濃く、草深い土地。<br /><br />無腰の一党がここへ来たときは、まだまだ意気軒高で、廃屋となっていた百姓家を、力を合わせて普請し、何とか住めるようにしていたし、近辺にも小屋をいくつか建てていた。だから、今でも雨露をしのぐには、ことさら困ってはいない。<br /><br />だが、せめてもの情けで、猫の額ほどの耕作地を持つことは許されていたものの、長年を通して、銭と糧食は慢性的に欠乏していた。そして、いつしか、微かな望みすら失われていった。<br /><br />失意の父は、すでにない。<br /><br />今までの、気の遠くなるような年月、この土地で、いったい何をしてきたのだろうか。30歳代の、壮んな歳月だったのに、十幾年、来る日も来る日も・・・・・・。<br /><br />かつての壮健さも、当然のごとく失われて久しい。このまま朽ち果ててしまうのか。</td></table><br />真田幸村の九度山配流時代の生活を明らかにできる、確かな史料はほとんど残っていない。だが、困窮、疲弊、絶望を、国許の縁者に訴える、侘びしき書状はある。<br /><br />「私なども去年より、急に年をとり、ことのほか病気になりました。歯も抜けました。ひげなども黒いところはあまりありません」（「真田幸村」山村竜也）<br /><br />満14年間、つまり、30歳代から40歳代という、人生の最盛期を全面的に潰されてしまい、幸村は朽ち果てる寸前だったのだろう。<br /><br />大坂決起が、心身を復活させたことは推測できるのだが、とはいえ、不思議なことがあって、筆者などは理解できない。<br /><br />有能を実地に移したのは、父・昌幸のほうで、幸村については、後付けの話が多く、リアルタイムで、幸村の有能さが認められる記録に乏しい。つまり、実戦経験がほとんど無いに等しいのだ。史学的に確認できるのは、わずかに関ヶ原合戦時、父の下知のもとで戦った上田戦ぐらい。<br /><br />30歳代に入って、父と共にこれから、というときに、流人生活に入ってしまったこと、天下が定まって、戦がなくなってしまったこと、これらが原因で、実戦の機会が失われてしまった、ということなのだろう。<br /><br />挙句の果てに、最盛期を無為にした14年に及ぶ流人生活での、心身の弛緩、衰微、老衰の絶望的状況。<br /><br />この幸村と、その直後の大坂戦陣で、天下を瞠目させた、知略、勇戦、鬼神の如き名将・幸村、日本一のつわものと、敵をして絶賛させた幸村と、いったい、どうつながるのか。<br /><br />想像や伝説ではなく、このあたりを理解させるような史的研究はないものだろうか。 ]]>
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<dc:subject>歴史エッセイ</dc:subject>
<dc:date>2008-09-07T22:11:48+09:00</dc:date>
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<title>濃姫夢幻－信長正室が、最も好感をもって描かれた小説</title>
<description> 信長が本能寺で、明智光秀に討たれたとき、敵味方の遺体が累々たる境内に、若やいで見えるものの、1人の、あでやかな姥桜（うばざくら）の遺体があったという。このような話が、ある記録に載っているということを、どこかで読んだことがある。何らかの古記録か軍記物にでもあるのだろうか。少なくとも、信長研究の基本史料たる、太田牛一の『信長公記』には、もちろん無い。この「ある記録」をヒントにしたのだろうか、山岡荘八は
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<![CDATA[ 信長が本能寺で、明智光秀に討たれたとき、敵味方の遺体が累々たる境内に、若やいで見えるものの、1人の、あでやかな姥桜（うばざくら）の遺体があったという。<br /><br />このような話が、ある記録に載っているということを、どこかで読んだことがある。何らかの古記録か軍記物にでもあるのだろうか。少なくとも、信長研究の基本史料たる、太田牛一の『信長公記』には、もちろん無い。<br /><br />この「ある記録」をヒントにしたのだろうか、山岡荘八は、その著作『織田信長』で、本能寺で夫のために戦って倒れた正室、濃姫の姿に、この話を対応させている。だが、この、「1人の、あでやかな姥桜の遺体」が、濃姫か侍女なのか、あるいはその時期の愛妾だったのか、それは実際にはわからない。<br /><br />ところで、濃姫の名には、主君・信長の奥方に、美濃の姫を迎えた、家臣たちの内々の呼び方、という雰囲気が感じられる。<br /><br />そして、濃姫の名は、帰蝶とも奇蝶とも言い換えられるのだが、何にしても、それらは小説や個人的想像の域を出ることはない。歴史的事実ではない、ということだ。<br /><br />つまり、この濃姫に関する直接的な史料は、ほとんど無いに等しい。<br /><br />言われているのは、離婚したか、早死にしたか、出家したか、ではないか、あるいは、結婚後もしっかり存在したが、本能寺にはおらず、長生きした、などだ。<br /><br />様々な説があるものの、どれも決め手の１級史料に欠け、またクロスチェックによる確認も不能で、推測に推測を重ねた、憶説、想像、小説（フィクション）の域を出ないのがもどかしい。<br /><br />戦国のことだから、女性や女性の名は歴史の表には出にくい、というのが基本にある。北政所や淀殿などのように、その女性自身が歴史のスポットライトを浴びる立場になると話は別だが、一般的には、史料に乏しく、研究自体が成り立ちにくいのだろう。したがって、当初のその史的追求は、終局、小説（フィクション・虚構）の世界に入らざるを得ない、となる。<br /><br />稀有の英雄・信長の正室、濃姫は、どのような女性か、夫・信長との夫婦の在り方はどうだったのか、など、実際を知りたいのが人情だが、残念なことだ。<br /><br />そしてそうした"信長小説"の中で、国民的人気を誇った傑作、山岡荘八の『織田信長』では、信長自体、および、濃姫と信長の関係の描き方において、さすが、とも言うべき描き方をしている。<br /><br />ちなみに、その小説の極く一部だが、本能寺の変、信長自刃後の最終シーンは、こうなっている。<br /><br /><table border="1" width="auto" cellspacing="0" cellpadding="10" bordercolor="#808080"><td bgcolor="#FFFFFF" valign="middle" width="500">夜がほのぼのと明けだした。<br />　もう濃御前も草の上で息絶えている。<br />　その死骸はいぜんとして若く、いまにも笑い出しそうに静かに見えた。それなればこそ、当時の記録に、大ぜいの男たちにまじって、ただ一つ女性の屍体があったが、それは二十八九とも見えるあでやかな姥桜で名前をおのうという老女（侍女頭）なそうな......と残っている。<br />　それが信長の室であろうとは、誰も想像つかなかったからであろう。</td></table><span style="font-size:x-small;">※山岡荘八『織田信長』（単行本初版、「下・本能寺の巻」）から引用。</span> ]]>
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<dc:subject>歴史エッセイ</dc:subject>
<dc:date>2008-08-30T00:18:07+09:00</dc:date>
<dc:creator>hayakaze2049</dc:creator>
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<title>大河ドラマと織田信長</title>
<description> 大河と信長の扱いＮＨＫテレビの大河ドラマは、去年、『風林火山』、今年『篤姫』。『風林火山』は、武田信玄の家臣、軍師として知られる山本勘助の物語だった。ということは、武田信玄は脇役の扱い。ちょうど豊臣秀吉を主役とする場合の、織田信長の扱いと同じか。なお、信玄そのものは以前、『武田信玄』で大河ドラマ化されている。また、『篤姫』も、幕末のお定まりの有名人ではなく、もともと脇役の女性を主人公にしたドラマ。
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<![CDATA[ <span style="color:#000099">大河と信長の扱い</span><br /><br />ＮＨＫテレビの大河ドラマは、去年、『風林火山』、今年『篤姫』。『風林火山』は、武田信玄の家臣、軍師として知られる山本勘助の物語だった。ということは、武田信玄は脇役の扱い。ちょうど豊臣秀吉を主役とする場合の、織田信長の扱いと同じか。なお、信玄そのものは以前、『武田信玄』で大河ドラマ化されている。また、『篤姫』も、幕末のお定まりの有名人ではなく、もともと脇役の女性を主人公にしたドラマ。天璋院篤姫。その存在を、筆者は初めて知った。それほど等閑に付されてきた人物だったのだろう。<br /><br />大河ドラマの『篤姫』そのものは、歴史（事実）ではなく、フィクション（小説をさらに脚本化）、と言ってしまえばそれまでだが、歴史のこうした切り方・見せ方は、歴史を偲ぶ際の参考になるものだ。<br /><br />ところで話変わって、織田信長だが、信長ファンとして、一言書いておきたいのは、ＮＨＫ大河の企画スタッフや脚本家が、信長という、この絶世の英雄に対し、かなりの偏見、でなければ狭過ぎる了見を持っているのではないか、ということ。<br /><br />信長は、人も知る、日本史上、最大級の英雄だし、中世から近世への転換を担当した革命児でもあって、これは歴史の常識だ。しかも逆臣の攻撃を受けての横死という、劇的な最期もある。したがって、テレビは、この人物を、むしろ他の誰を描くよりも、最もドラマティックに描けるはずなのだ。<br /><br />にもかかわらず、筆者の知る限り、40数年の歴史を持つ大河ドラマで、信長が完全な主役として扱われたのは、ただの１回のみ、という惨状？がある。<br /><br /><br /><span style="color:#000099">NHK大河『信長 KING OF ZIPANGU』の惨状</span><br /><br />大河初期の国盗り物語の、高橋英樹扮する信長は大評判となり、さらにその後、太閤記の、高橋幸治の信長もまた、「本能寺の変で死なせないで！！」といった、ほほえましい、視聴者の絶大な人気が集まったという。が、これら２作品の場合も、信長は、言わば第２主役であり、また脇役という位置付けに過ぎなかった。<br /><br />それでも、この２作品における信長の描き方は、信長は冷酷非道などと言われているが、実際には、こうであったのではないか、本当はこうあってほしい、といった、日本史有数の英雄・信長に対する日本人のイメージや願望に、ほぼマッチしたものとなっていた。両作品における第２主役・脇役の信長が人気を博したのは、演じた両高橋の好演・好感だけではなく、まさに人物描写自体にこそ、その要因があったと思う。<br /><br />ところが、'92年（平成4年）、信長を、初めて、掛け値なしの主役とする大河ドラマが放映された。そして、それは、大方の期待を裏切って、史上、最低最悪の出来だった。<br /><br />暗い、気弱、神経質、超マザコンで、それゆえに、時にトンデモない凄いことをやってしまう、あたかも病的な人物として描かれたのだ。<br /><br />しかも、1年を通して、乞食のような外人を狂言回しに使い、これが主役なのか、信長が主役なのか、視聴者には、よく分からない、という有様。<br /><br />スペイン・バルセロナのオリンピック、スペイン年、にあやかって、信長なる人物への新視点を打ち出したつもりなのだろうが、戦国期の日本で、布教活動をしたルイス・フロイスが、その、乞食みたいな外人の正体だ。<br /><br />日本人の信長像、期待像と、まるで違うではないか、大河ドラマの主役なのに、よくもこんな変チクリンな人物として信長を描くものだ、と、ＮＨＫと企画者・脚本家の神経を疑ったものだ。<br /><br />大河ドラマ史上、最低最悪の出来、それが'92年の大河ドラマ『信長』だった。子会社・ＮＨＫエンタープライズへの外注、その第1作目だと言う。<br /><br />そして、一昨年の『功名が辻』でも、「もちろん」、信長は脇役。<br /><br />国民的英雄・信長を主人公に、真正面から捉え、ドラマティックに壮大なスケールで描こう、という気は、ＮＨＫには、まるで無いようだ。素直でないような、何とも奇怪な方向性だと思う。疑いを抱かずにはいられない。<br /><br /><br /><span style="color:#000099">信長の主人公化を避ける？ 描く力量が無い？</span><br /><br />叡山焼き討ち、一向一揆平定などを含め、守旧・既得権益、甘えにしがみつき、発展を阻害する中世的な桎梏、アンシャンレジウムに対し、信長が行なった強烈・大規模な破壊と殺戮。<br /><br />たぶん、「戦後的見方」に絶対的に絡め盗られ過ぎたＮＨＫ（エンタープライズ）としては、信長を主人公化してのドラマ作りの上で、このあたりが、何とも思想的･政治的に、どうにも消化（昇華）しきれない部分なのかも知れない。それで信長主人公化を避けるのではないか、と思う。<br /><br />その結果、信長がぶっ壊して建設のお手本を見せたあと、それを引き継いだサル秀吉とか家康とか、はたまた山内某、山本勘助、隠れたヒロインとかの、当たり障りの無い、安易な方向へと、どうしても流れてしまうのだろう。<br /><br />しかし、勘違いしてもらっては困る。大河ドラマは、小説であり、ドラマなのであって、歴史ではないのだ。１から10まで、史実に囚われ過ぎる必要は全くないわけだ（分かり切ったことを、あらためて言うのも可笑しいが）。<br /><br />信長を主人公にし、それを国民的人気ドラマに仕立て上げられなくて、どうするのだ。プロの名が泣こう。<br /><br />信長主人公化ドラマの原作にふさわしい、格好の小説が、すでに有るではないか。「青少年に夢と勇気を与え、血湧き肉踊る傑作、雄渾の筆致で描く」（初版時宣伝コピーの趣旨）とうたわれた、その名も『織田信長』（山岡荘八）という、信長物語の傑作が。<br /><br />歴史小説の大家の、この作品を、ＮＨＫや企画者、脚本家が知らないはずは無いが、長年にわたって、なぜか、避けて通っている、ということなのだろう。<br /><br /><br />それとも、信長という人物と業績は、現代の誰も把捉し切れない、それほどの超巨星だということか。そして、だからこそ、信長を真正面から捉えて主人公化した大河ドラマを、作る能力のある者が、ＮＨＫとその周辺には、いない－－実のところ、これが真相なのかも知れない。 ]]>
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<dc:subject>歴史エッセイ</dc:subject>
<dc:date>2008-08-16T17:46:21+09:00</dc:date>
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